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永井謙佑、刻を趨る。 [青き空想赤き妄想]

誰よりも速く走る者が見る景色が、常人のそれとは異なることを知る者は少ない。一般的な能力を有する者が10秒余りかけて得る50メートル先の情景を、彼は5.8秒で視認することができる。やがてその差は大きな隔たりとなり、彼は近未来の世界を先取りして現世に戻るシャトルランを繰り返すまでに至った。

常人に理解し難い感覚を乱暴に言語化すると、彼は時空を超えて走り抜けた先に転がる「未来」の一部を捉えては、日常世界に戻る動作を無数に重ねてきた。世界一のフリーダイバーが、誰にも辿り着けぬ深海の果てと海面を行き来するように。その目にはもはや「数ヶ月先」の輪郭すら映るようになっていた。

その夜もまた、次元の違う速さで敵陣を切り裂き、最後の砦であるGKをも躱(かわ)した。野生的な身体能力を有するその男は、他方で組織と仲間を思い遣る実に人間的な感情も持ち合わせていた。あとは浮いたボールをゴールへそのまま流し込むだけ、その1.5秒の間に無数の感情が彼の脳内で処理された。

満場の喝采を浴びる瞬前。このまま得点すると何が起きるのか、彼は那由多の「if」を瞬時に解析した。さすがに6点目を奪うとチームの空気が弛緩してしまわないか(8点取った次の試合で惨敗するクラブすらあるというのに)。太田宏介・田邉草民・岡崎慎の初ゴールへの注目が薄れてしまうのではないか。

そして何よりもファン・サポーターの期待に添えないことが悩ましかった。右肩を脱臼した後、必死のリハビリを経ても不安は完全に払拭されず、長谷川健太監督からガム同様「シャー」を固く禁じられていたのだ。得点しても「シャー」を拒絶することで逆にスタジアムの空気を悪くしてしまうのではないか。

数分後の未来が見えた。喜びの儀式が未遂に終わり、悲しむ子供たちの表情。「やはりこれしかない」最後の数ミリで軌道を変えたボールは、狙い通りゴール枠外へ。「これでいい」脱力感に包まれたスタンドが数ヶ月先にはどのような感情で満ちているのか、ネットに身体を沈めた永井謙佑だけが知っている。


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